HOME > 編集部ブログ > 本をきっかけに、民間外交が始まった。

メディアイランド編集部ブログ

2016年08月24日 本をきっかけに、民間外交が始まった。

 梅雨の晴れ間、6月18日に日比谷公園で、ある記念碑の除幕式があり、参列した。
 アジア太平洋戦争のフィリピン戦犯裁判のBC級戦犯105名を赦免した、第6代フィリピン大統領エルビディオ・キリノ氏の顕彰碑である。
 除幕式はフィリピン大使館が主催、キリノ大統領の関係者、日比の政府要人、フィリピンと関係の深い企業の代表者、在日フィリピン人、フィリピンにゆかりのある人々、マスコミ総勢160名の賑やかではれやかなものであった。
 私が参列したのは、ある本をメディアイランドで発行した事がきっかけである。
『画家として 平和を希う人として 加納辰夫(莞蕾)の平和思想』(2015年3月1日発行)。(http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784904678534)この本が縁で、私は、マニラを訪問し、キリノ大統領の家族と会い、セカンドファミリーと呼ばれ、そしてある美術館の理事にも就任することになった。
 本書の内容は、島根県生まれの洋画家加納辰夫(号・莞蕾)が、全く偶然に取り組む事になったフィリピン戦犯釈放運動、および平和運動に関して、娘である著者が、事績をまとめたもの。モンテンルパのニュービリビッドプリズンに収監されていた死刑囚・無期囚の釈放には歌手の渡辺はま子さんの歌が功を奏したという逸話が有名であるが、ほかにも当時の教誨師、厚生省復員局にも非常に熱心に活動した人々がいた。標題にある加納辰夫もその一人だった。ただ、加納が他の人と違ったのは、自身の係累に戦犯家族がいなかったこと、また組織だって運動をするのでなく、ほぼ一人で運動を続けた事である。具体的には、キリノ大統領をはじめフィリピン国内のキリスト教関係者、ローマ法王にまで英文での嘆願書を一個人として出し続けたことであった。そして、「愛児を日本兵に虐殺された大統領が全員を赦すという、困難な行為をおこなうことにより、日本人はその精神を受容し、世界平和を建設するために尽力する」という加納独自の平和哲学に基づいた行動であった。
 加納は私財をなげうち、私生活を犠牲にしてでも、この嘆願運動を続けた。戦犯赦免までは、金銭目的に運動をしているとの誤解も受けた。周囲の理解を得られず、かのかうの行動や精神は歴史のなかで埋もれ、家族のほかには少数の友人や研究者たちだけにひっそりと伝えられるだけであった。(なお、加納の事績や思想の詳細についてはご関心あるかたは同書をぜひお読みくだい。)
 加納は画家であった。1996年、彼の作品を収める私立美術館・加納美術館を加納の息子が出身地(島根県安来市広瀬町布部)(http://www.art-kano.jp/)に建設し、作品とともに戦犯釈放運動の記録も保存することになった。息子の没後は、その妹夫妻が後を継いでいる(その間に、美術館は市に寄贈され、安来市加納美術館と名称を変更した)。
 加納の事績を本にしたいという相談を著者から受けたのは、2012年頃である。実は加納は私の母方の祖父にあたり、著者は叔母にあたる。地元の出版社も選択肢にあったようだが、「それは私に編集も発行もさせてほしい」と、叔母と私との二人三脚が始まった。
 身内だからとむやみに美化しては説得力に欠けるものになる。読み物としても、埋もれた史実を記した書物として価値のあるものに、なんとしてもしたかった。父の、私にとっては祖父の生涯を知ってもらいたい、その平和哲学を広めたい……。戦後70年という記念の年に発行。販路は美術館と著者の講演会が主となった(現在3刷。)。
 さて、キリノファミリーとの邂逅であるが、これには、地元のテレビディレクターの力が大きい。地元放送局OBのディレクターが熱心に加納を取材していた。戦後70年をキーワードに加納を主人公にしてドキュメンタリー番組をつくろうというのである。モンテンルパ刑務所などを取材しようとマニラに行った際、運良くキリノ家の孫娘ルビー・ゴンザレス・キリノさんはじめ、複数の親族にインタビューすることが出来た。ルビーさんは、この取材時にはじめて加納が出し続けた嘆願書のコピーを読み、「赦し難きを赦す」というキリノ大統領の赦免に関しての姿勢と加納の平和哲学の接点を強く感じられたのであった。番組は2015年夏に放映され、ルビーさんが嘆願書を読むシーンはドキュメンタリーの中でもハイライトになった(番組では本書も紹介された)。
 また、全国紙の松江支局の記者(当時)が熱心に加納と本書について取材し、記事として報道してくれた。この記者氏は学生時代にマニラにボランティアで通っており、フィリピンに関心も高かったのである。これらにより、加納の事績も地元で再確認されることになった。
 ところで、本書が書かれる前、広島市立大学教授である永井均氏が『フィリピンBC級戦犯』(講談社メチエ)で、アジア太平洋賞を受賞された。同書の中では、加納についても触れられている。永井氏の調査により、加納の書いた嘆願書がキリノ大統領の元に届いていたという証拠が明らかになったのだった。我々家族には、加納の努力が大統領に届いているか、60年の間、確認しようがなかったのである。
 家族のもとには、1955年にキリノ大統領が東京を訪れた際に帝国ホテルで二人が一緒に映っている写真、それだけがキリノ大統領との直接のつながりを示すものであった。徒手空拳の闘いをしていたのではないのかと、半ば諦め気味でもあったので、この調査結果は本当にうれしいものだった。

 キリノ大統領は、日本人戦犯を赦免した事で、フィリピン国内での評価は低かったが、2015年11月の生誕125周年を機に再評価運動が開始されていた。翌2016年、没後60年を記念して、家族の墓地から英雄墓地への改葬も計画されていた。出版も含め、図ったようなタイミングである。
 2016年は日本からフィリピンが大きく注目される年になった。1月末には天皇皇后が訪比され、日本でも大きく報道された。フィリピンにとっても天皇訪問は大変大きな行事であった。キリノ大統領の孫娘のルビーさんたちとも会われた。ルビーさんたちにとっては、熱望が叶った瞬間であった。「憎しみの連鎖を願わず」戦犯を赦免したキリノ大統領への感謝を直接伝えられたという。
 2月には、著者夫妻とともにわたしもキリノ大統領英雄墓地改葬式に招待され、マニラを訪問した。永井教授をはじめ、地道に取材を続けていたテレビディレクター、新聞記者も同行し、日本側の参列者として出席したのである。マニラの邦人向け新聞の記者に通訳をしていただき、歴史の瞬間に立ち会うことができた。
 キリノ大統領の再評価の一方、加納の再評価も進んでいた。島根県下の中学生が使用する道徳副読本に2016年から加納が教材として取り上げられたのである。
 そして、キリノ大統領の事績を顕彰するために、日比谷公会堂の向かい側に、顕彰碑が建立された。6月18日。梅雨の晴れ間の快晴の日。日比の政府要人、企業関係者、ゆかりの人々およそ160人の前で、顕彰碑の幕が外された。翌日6月19日はフィリピンがスペインからの独立の志士ホセ・リサールの誕生日。彼の顕彰碑も日比谷公園の中にある。
 式典の中で、加納の家族はキリノ家のセカンドファミリーとして紹介された。
 書籍、新聞、テレビ、三つのメディアに関わるものが、「加納プロジェクト」を実行している、そんな気持ちが強まった、この一年数カ月であった。
 2016年10月には、島根の安来市加納美術館にも日比友好の碑が建てられる。
 本は相変わらず著者の講演や島根県内でしか売れていない。だがこの本がきっかけになって、予想だにしない民間の平和外交のつながりができたことは間違いない。地方行政のみならず、外務省や国会議員も巻き込んだ急展開に、家族(もちろん私も含む)は驚いている。
 歴史を紡ぐのは人々の小さな活動なのだと、改めて感じさせられる。加納と同様、埋もれている市井の活動家、思想家はきっと多いだろう。その事績を、丹念に掘り起こしていく研究者たち。この人たちも市井の人たちだろう。出版の仕事はそんなことどもをとりまとめ、本という物体にして存在せしめ、世に問うことなのだ。改めて感じている

メディアイランド 千葉潮