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メディアイランド編集部ブログ

2016年08月17日 加納美術館・加納莞蕾関連記事が朝日新聞島根版に掲載されました。

2016年8月15日の朝日新聞島根版。小早川遥平記者の署名記事です。

小早川記者は、加納莞蕾関連の記事を数年前から継続的に書いておられます。(ち)

http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160813001521.html

以下引用。

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 戦後、フィリピンのBC級戦犯裁判で有罪を認め、わずか3日間の審理で死刑を言い渡された海軍の元少将が雲南市にいた。実家に残されたトランクが今年、
およそ半世紀ぶりに開けられ、本人や法廷通訳が妻に宛てた手紙が見つかった。専門家は「戦犯裁判の実態を被告側から照らす資料として貴重だ」と指摘する。
■実家で保管 半世紀ぶり解錠

 木次町出身の古瀬貴季(ふるせたけすえ)・元少将(1895?1960)。海軍兵学校を卒業して比島航空隊司令などを務め、フィリピンのBC級戦犯とし
ては海軍最高位にあった。ルソン島で起きた住民152人の虐殺事件で指揮官としての責任を問われて死刑判決を受け、1953年に特赦で帰国した。
 ログイン前の続きトランクは60年の没後、実家に保管されていた。安来市出身の画家、加納莞蕾(かんらい)(1904-77)が当時のキリノ大統領に戦犯釈放の嘆願をしていたことを元少将の親族が知り、嘆願の書簡を展示する加納美術館で今年3月に初めて解錠された。

 中にあったのは軍服や勲章のほか、本人や裁判の関係者が親族に宛てた手紙計13点。通訳の福井慶治氏の名前で出された手紙には30分前に銃殺刑が宣告さ
れたとある。「申し送る言葉も存ぜぬ」と家族をいたわる一方、「絞首刑と違い、武人としての名誉を保ち、減刑の余地がある」ことや「立派なる言行が法廷の
人に好感を与えた」ことがつづられている。
 同国のBC級戦犯裁判は73件の審理に2年半を要したが、六つの訴因全てに有罪を認めた古瀬元少将の裁判は3日間で終結した。
 公判記録によると、結審を前に元少将が裁判官に感謝の意を伝えたうえで、「生きることを許されるのならば、犯した過誤への償いに尽くしたい。死刑ならば自分の死が日比両国の荒波を鎮める一助となることを祈る」と述べたと残されている。
 こうした態度は嘆願のきっかけになった。終戦直後、松江地方海軍人事部で文官をしていた莞蕾は、マニラから復員した元少将を出迎え、46年に戦犯容疑で巣鴨プリズンに向かう際は荒島駅で見送っていた。
 莞蕾の肉声を記録した資料によると、この時、元少将は軍のモラルの荒廃を嘆き、「若い青年士官をかく教育した罪を自分は負うべき」とし、日本軍の機構としての罪について「国民に反省されなければ、再び日本を正しめることはできない」と語ったという。
 古瀬元少将は寡黙な人として知られる。今回、トランクに残されていた妻宛ての手紙にも「心配せず養生第一で」とあるが、自らは多くを語っていない。
 従軍先の中国で日本兵が民間人を斬るなどの行為を目の当たりにしていた莞蕾は、元少将の姿勢に共鳴するとともに、有罪を認めた背景を世に知ってもらうために嘆願を始めたと語り残している。

 トランクの解錠に立ち会った広島市立大の永井均教授(日比関係史)は、資料の歴史的な価値を指摘したうえで「法廷通訳の手紙には元少将の冷静な態度が記
され、法廷に感動を与えた様子が読み取れる。敬意を抱き、いち早く家族に状況を伝えようと送ったのだろう」と話している。(小早川遥平)
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 〈フィリピンのBC級戦犯裁判〉 山下奉文陸軍大将らが裁かれた米軍マニラ裁判をフィリピン政府が引き継いだ。永井教授の研究では47年8月?49年
12月に151人が裁かれた。民間人殺害や性暴力などの重大犯罪が他国での裁判より多く、有罪だった137人の半数以上が死刑判決を受けた。53年に当時
のキリノ大統領が特赦をするまでに17人の死刑が執行された。