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メディアイランド編集部ブログ

2015年03月27日 読者様より書評をいただきました。『画家として、平和を希う人として 加納辰夫(莞蕾)の平和思想 』

千葉です。

 東京都にお住まいの備仲臣道様から、『画家として、平和を希う人として──加納辰夫(莞蕾)の平和思想』の書評をいただきましたので、備仲様の許可を得て、ご紹介いたします。

 備仲様、どうもありがとうございました。

 

加納佳世子『画家として、平和を希う人として──加納辰夫(莞蕾)の平和思想』(メディアイランド)

 

                                           備仲臣道

 フィリピンにおけるBC級戦犯の赦免運動を、「家族を顧みることもできないほどまっしぐらに歩んだ」(あとがき)加納辰夫という画家の、人生の軌跡を丁寧にたどって、戦後70年を振り返り、平和とはモラルとは──を考えようというのが、本書のねらいであろうと思う。本書は加納辰夫の娘である、安来市加納美術館館長・加納佳世子によって書かれているが、身内のことを書いたものにありがちな、驕りや虚飾、衒いといったものが、ここにはまったくない。清々しいまでに淡々と述べられているのは、辰夫が書き残したものや録音したものを、資料としているからでもあろうけれど、それよりも著者の資質によるものが光っているからだと考えたい。

 

 加納辰夫は1904(明治37)年に、島根県能義郡布部村の菓子屋を兼ねる裕福な農家に生まれた。17歳のとき、島根師範学校本科に入学したころから、油絵を本格的にはじめたと言われている。父が亡くなったために師範学校をやめた辰夫は、島根県小学校教員養成所に学び、卒業すると村の宇波尋常小学校で訓導となった。小学校の正規の教員を訓導と言ったのであるが、22歳の1926(大正15)には退職して上京、川端画学校などで学び、岡田三郎助に師事した。この年に光風会展に入選したのをはじめ、帰郷してからも光風会、白日会、二科展などに入選している。再び村の小学校で訓導となるが、独立美術協会の創立に加わり、連年、同展に出品した。

 

 1937(昭和12)年には小学校を退職して朝鮮へ渡り、総督府京城高等工業学校の講師から教授になり、決戦美術展で特選になるなどしたのち、朝鮮軍事美術協会総務主任になった1945(昭和20)年8月、日本の敗戦により帰国して郷里に落ち着いた。

 

 私は絵についてはずぶの素人であるが、本書の口絵にある写真で見る限り、勢いのある大胆なタッチで人物や静物が描かれ、塗り重ねた重厚な画面は魅力的であると思う。ついでに記せば、50歳を過ぎたころから描いた墨彩画にも、油絵とは違った趣があって楽しい。

 

 戦後すぐに松江地方海軍人事部に勤務していた折り、マニラから帰っていた古瀬貴季元海軍少将と会ったことが、辰夫をしてフィリピン戦犯の赦免運動に走らしめるきっかけであった。古瀬は、未来ある青年たちを死に追いやったことは、自分の負うべき罪である、このことが日本国民に十分反省されなければ、日本の未来はない──という意味のことを言ったという。そうして、巣鴨へ招致される古瀬を見送った辰夫に、自分は死刑になるだろうが、それを受け入れるのだから、誰も助命嘆願などしてくれるな、と言い置いて去った。それを、その場では約束した辰夫ではあったけれど、3年を経たころから、古瀬のみならずフィリピン戦犯のすべてに対して、赦免運動に取り組みはじめたのである。それは「戦争裁判の目的とは何か。戦犯を殺すことによって平和が実現できると考えているが、果たして人を殺して平和が実現できるだろうか。赦してこそ平和が実現できるのではなかろうか」と考えたからのことであった。

 

 上京した辰夫は、いろんな人脈に助けられながら、フィリピンのキリノ大統領に嘆願する書簡を数度にわたって送り、ローマ法王ピオ12世にもそれを送付したりした。
 辰夫はつぎのようにも書いている。

 

  「あなたの愛児の名においてすべての罪と罪人を赦せ。貴方の奥さんと子どもさんを殺した日本人の立場で言えることではない。しかし、私は芸術家だから言えるのである。芸術と芸術家には国境がないのだから。戦犯の罪を問い、処刑に至らしめるのは、果たしてそれは、キリストの愛であろうか。貴方の遺児が、果たして喜ぶことであろうか」

 

 辰夫の活動は前にも書いたとおり、家族をも顧みず、すなわち、暮らしを傾けるまでに必死のものであった。こうして、4年後の1953(昭和28)年7月、キリノ大統領はフィリピンに服役中の日本人戦犯に対し、大統領権限による特赦を与えたのであった。妻と3人の子とそのほか5人の家族を、日本人に殺されたキリノ大統領の声明は、誠に感動的なものであるが、ここに引用したいという誘惑を捨てて、本書を開いてお読みになることをお勧めしたい。その年7月22日、108人が十七柱の遺骨とともに横浜港に帰ってきた。
 思うに、この戦争は植民地争奪戦争であるから、どちらが正義でどちらが悪ということはない。戦争に勝ち負けはあっても、そもそも正義などというものは、薬にするほどもないのである。辰夫が、そう考えたかどうかは判らないし、本書のどこにもそのようなことは書かれてはいない。だから、これは私見であると書いておこう。

 

 さて、その後の辰夫は、1954(昭和29)年、50歳の年に布部村の村長になり、自身の平和を希求する活動の延長として、「世界児童憲章」の早期実現を村議会で決議した。また、「布部村平和五宣言」(自治・国際親善、世界連邦平和、原水爆禁止、世界児童憲章制定促進)を発表している。

 

 水墨画集『莞蕾墨彩』が刊行された1977(昭和52)年の8月15日、安来日立病院で73年の生涯を閉じた。