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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第43回 最澄、空海の青春

最澄は生まれ育った近江国で15歳のとき、行表という師匠について得度しました。

さらに19歳のときに具足戒を受け、国家が定める正式の僧侶になりました。



そのときの記録が奇跡的に残っていて、

ほくろが首の左側と肘の関節の上にあったことが記録されています。

しかし、最澄は具足戒を受けて間もなく、エリート僧侶の資格を棄てて

比叡山に入り、大蔵経を読み山野を駆けめぐる修業を始めます。



最澄が具足戒を受けた頃、12歳の空海はまだ故郷讃岐で少年時代を送っていました。

3年後に伯父阿刀大足について学問を学び、18歳で大学寮に入り、

エリート官僚の道を歩み始めます。

しかし空海も大学寮での勉学を棄てて山に入り、修行を始めます。

奇しくも最澄と同じ19歳頃のこと。



最澄と空海、2人はなぜエリートの道を棄てて山野に入ったのでしょう。

一つには、当時の日本が過渡期にあったことがあると思います。



大宝元(701)年に始まった日本の律令制度は、

わずか80年でさまざまな矛盾を抱えるようになりました。

官僚制度は藤原氏の台頭によって機能しなくなります。

また仏教界も政治への干渉などで変質しつつありました。

若くて聡明な最澄、空海がこうした体制に矛盾を感じたとしても不思議ではないと思います。



また、最澄、空海は当時の都であった奈良で学びましたが、

この地には二人が奈良に来る20年ほど前に渡来僧がもたらした、

最先端の経典があまり研究されずに残されていました。

最澄は鑑真がもたらした天台宗の教えに奈良で接して大きく心を動かされました。

また空海も、密教の経典である大日経に奈良の地で出あいました。

ともに大陸の進んだ仏教にふれて、

それを己がものとしたいという希望を抱くに至ったのでしょう。



最澄は比叡山での12年の修行ののち、桓武天皇に見いだされて

仏教の国家的指導者になりました。

空海も19歳から30歳までの間、近畿や四国などの山野を歩いて修行に明けくれます。

その間に出家をしたようです。

もちろん、国家が認めた僧侶ではなく勝手に出家をした私度僧でした。



二人はともに、大陸で仏教を学びたいという強い気持ちを抱いていました。

その時がやってきます。

延暦23(804)年、25年ぶりの遣唐使船が出ることになったのです。

最澄38歳、空海30歳のことでした。


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空海が修行中に明星が体内に飛び込んだという伝承のある高知県室戸岬の最御崎寺


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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