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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第41回 空海のあゆみ

今はほとんど使われませんが、大阪には

「それはお大師さんの頭にマゲがのって寺子屋に通てた時分の言い草やで」

という言葉がありました。要するに「古すぎる話や」ということです。



"お大師さん"弘法大師は"太閤はん"豊臣秀吉とともに、大阪人にとって、

昔馴染みのような親しみを感じる存在でした(ともに他国人ですが)。

東京の人が日蓮を「お祖師様」と呼ぶのと似ていますが、

もっと明るく、気楽なニュアンスがあります。



弘法大師空海は、宝亀4(774)年讃岐の屏風浦(善通寺市)に生まれました。

最澄より8歳年下。

この年に奈良時代の仏教界をリードした良弁が亡くなっています。



さらにこの年、遠い中国では不空金剛というインド系の高僧が入寂しています。

不空は密教の正系とされ、のちに密教を学んだ空海の大師匠にあたります。

空海の生誕した年に亡くなったことで、空海は後年、

自身を不空の生まれ変わりと意識するようになります。

遍照金剛という法名も不空に因んだものです。



空海は讃岐佐伯氏に生まれました。幼名を佐伯真魚。

讃岐の佐伯氏は蝦夷(屈服した東北人)の出だとされ、

その子孫は讃岐で佐伯部という部族集団を形成させられます。

以後、讃岐地方で勢力を増し、有力な豪族となりました。



元は針間別佐伯直といいましたが、

空海が生まれる100年ほど前に佐伯直と改めました。

空海が生まれた頃には、讃岐佐伯氏は中央の佐伯氏と同族を名乗っていたようです。中央の佐伯氏は大伴氏の一族で軍事をもっぱらとする名家。

地方の反乱を鎮圧することに功がありました。



そもそも「佐伯部」という名前自体が、

「佐伯氏によって屈服させられた反乱部族」という意味だったとの説もあり、

讃岐の佐伯氏は中央の佐伯氏に屈服した部族であったかもしれません。

しかし、空海の生誕時には讃岐佐伯氏は中央の佐伯氏を「本家」と仰いでいました。



後の空海、佐伯真魚は、周囲が注目する聡明な子どもでした。

空海の母方は阿刀氏という中央の下級貴族で、代々学者や高僧を出した家柄でした。

母の兄阿刀大足は都で桓武天皇の第三皇子伊予親王の家庭教師をしていました。



日本はその70年ほど前から律令制が敷かれ、

優秀な官僚には家柄にかかわらず出世の道が開かれていました。

空海の聡明さに気付いた叔父阿刀大足のすすめもあって、

両親は空海を高級官僚にすべく奈良に送りだしたのです。



頼ったのは中央佐伯氏の当主であった佐伯今毛人でした。

今毛人は稀有な能吏で、聖武天皇の紫香楽宮の造営に始まり、

東大寺の建築、長岡京の造営などを指導、監督。

藤原氏を中心とした抗争に巻き込まれて失脚したり、

遣唐使にさせられ遭難を逃れたり、

きわどいバランスで権力闘争を生き抜いてきました。



18歳で都の大学寮に入った佐伯真魚には、

阿刀大足、佐伯今毛人という有力な後ろ盾がいたのです。



この頃、最澄は具足戒を受けた国家公務員の僧侶でしたが、

日本の仏教に疑問を抱き、故郷比叡山の山中に入り、修行をしていました。

二人はお互いのことをまだまったく知らなかったのです。


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伝空海生誕の地に建つ善通寺(香川県善通寺市)


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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