HOME > 広尾 晃の気まぐれ寺ばなし > 第37回 リセットしたかった桓武天皇

広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第37回 リセットしたかった桓武天皇

天武天皇のひ孫である聖武天皇とは血縁が薄い帝です。

天武の系統が聖武天皇の娘、孝謙天皇で絶えたあとに、

天智の孫である光仁天皇が即位、桓武はその第一子でした。

しかし母新笠は皇族ではなく、渡来系の和氏(のち高野氏を賜る)であったために

皇継とはみなされず、一度は臣下となりますが、

藤原氏を巻きこんだ皇位争いによって即位されました。

当時としては初老の44歳のことでした。



桓武天皇は弟の早良皇子を皇太子とするなど、中継的な即位とみなされていたようです。

しかし、野心があった桓武は、早良皇子を廃して流罪に処し、我が子を皇太子につけます。



桓武天皇は自ら望んで帝位に就いた天皇であり、権力への志向も強い方でした。

また、渡来系氏族の血も引いているので、大陸へのあこがれがあり、

唐の国に倣った強い中央集権型の国家建設を志向していたようです。

さらに、奈良時代を築いた天武系の皇統が絶えて、天智系が復活したばかりでもあり、

「新しい国を作りたい」という意欲にも燃えていたようです。



前回も述べたように、奈良の都は東大寺、興福寺など巨大な寺院が甍をならべ、権勢を誇っていました。

桓武天皇は大仏開眼のときには、18歳に達していましたから、

歴史に残る盛大な開眼供養にも参列したはずです。

また良弁や道鏡など奈良仏教の頂点に立つ僧侶の立ち居振る舞いも目にしたはずです。



さらに、鑑真がもたらした最新の仏教の教えによって、日本の仏教が本来の姿を離れて、

おかしな方向に向かっているという認識ももっておられたかもしれません。

桓武天皇ご自身も政争を経て権力の座に就き、さらに弟早良親王を失脚させて

自らの系統を正嫡にした経緯がありました。



流刑となった早良親王は抗議のために餓死しました。

同母弟を死に追いやった罪の意識は、帝に重くのしかかりました。



桓武にとって「奈良」は忌まわしい思い出、

煩わしい出来事の多い都だったたのかもしれません。

遷都は、恐らく、これまでのさまざまなしがらみを断ちたいと考えてのことのように思われます。

いわば「リセット」しようとされたのです。



第37回17-1中.jpg

権力をもつにいたった興福寺


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

メディアイランド刊『ふつうのお寺の歩き方』

全国書店やネット書店で絶賛発売中 ↓↓↓ 

http://www.mediaisland.co.jp/item2/item240.html

http://www.amazon.co.jp/ふつうのお寺の歩き方-広尾-晃/dp/4904678745

お寺書影-thumb-230xauto-140.jpg

活字メディア探訪

著者に聞く

Facebookページ

自費出版をお考えの方へ