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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第25回 国を傾けた大仏造営

河内国に古来、茨田(「まった」もしくは「まむた」)氏という有力な古代豪族がありました。

渡来系の秦氏の一族とされますが、仏教信仰が厚く、

7世紀後半には河内大県に知識寺という氏寺を建てていました。



この寺は巨大な盧舎那仏を本尊としていました。

聖武天皇は各地に国分寺、国分尼寺を造るようにという詔を出される少し前に、

難波宮行幸の途中、この知識寺で盧舎那仏を拝し、

その謂れを聞いて深く心を動かされたといいます。



「全国の国分寺の総元締めである総国分寺にはぜひ盧舎那仏を建立したい」

その思いを発表されたのはそれから3年後の天平15(743)年のことでした。

ただし、それは奈良の平城京ではなく、近江紫香楽宮での建立でした。



当時の朝廷は、長屋王の変ののちに朝廷の実権を握った藤原氏が

疫病で勢力を衰えさせ、他の貴族との間で抗争が勃発していました。

天平12(740)年には九州に左遷された藤原広嗣が反乱を起こし、

朝廷は難を逃れるため山城に恭仁宮を造営していました

(この地は山城国国分寺が建てられた地でもあります)。



奈良時代といえば、奈良の平城京に都が定められた平和な時代と思われがちですが、

政情不安が続いていたのです。

聖武天皇は紫香楽宮での大仏造営をスムーズにするために、

天平15(743)年末には、ついに紫香楽宮を都と定めます。

そこまで力が入っていたのです。



こうして大仏造営は始まりましたが、作業は度々頓挫を余儀なくされました。

大仏の周辺で不審な火事が起こったり、殺人事件が起こったりしました。

恐らくは反対する勢力の画策によるものでしょう。

なおも聖武天皇の周辺は不安定でした。

天平16(744)年に難波に遷都したあげく、翌年には平城京に戻ります。

毎年のように都が変わったのです。

大仏造営は中断を余儀なくされました。



再び平城京に都がもどったことで、聖武天皇は改めて

奈良の地に盧舎那仏を建立することを決意します。

聖武天皇、光明皇后には思いの深い金鐘寺の境内に大仏を造ることが決意されたのです。



なぜ、大仏造営は困難を極めたのか。一つには、多難な時代背景があります。

天平6(734)年には大地震がありました。また飢饉も長く続きました。

疫病(天然痘)によって、多くの貴族や官僚も死亡しました。

さらには藤原氏や他の貴族の権力闘争も多発していました。



聖武天皇はこうした世の中を鎮めようと大仏建立を発願されたのですが、

国家はこうした大事業を行うには疲弊しすぎていました。

大仏そのものもこれまでに例のない巨大なもので、

山肌を削るなど地形を変容させなければならないほど大規模なものでした。

技術的にも相当な無理があったのです。



結果的に、大仏造営、東大寺建立は疲弊した国家財政を危機的な状況に追いやりました。

聖武天皇は悲願達成のために、これまで弾圧していた民間の僧侶行基の協力を仰ぎ、

民衆の手も借りて大仏建立、東大寺落慶へとこぎつけたのです。


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東大寺大仏

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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