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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第21回 幼子への想いが東大寺に結びついた

聖武天皇は母宮子の妹に当たる藤原光明子を妃とします。

光明皇后です。



叔母を妃にしたわけです。今の感覚では異様に思えますが、

古代における姻戚関係は、このように濃厚なものになりがちでした。

ただし宮子と光明子は母が違う異母姉妹です

(一説には宮子は紀州の海女であり、養女だったといいます)。



宮子と光明子の父は藤原不比等。

鎌足の子でしたが、天智天皇の落胤ではないかという噂が絶えない人物でした。

11歳で父鎌足と死に別れ苦労をしますが、

聖武天皇の父である文徳天皇に長女宮子を嫁がせ、このころから頭角を現します。



これまで、天皇の正式の妃である皇后は、皇族から立てるのが通例でした。

藤原氏は功臣とはいえ臣下です。

光明子の姉の宮子も文徳天皇の妃になりましたが、皇后にはなりませんでした。

前例がないと長屋王ら皇族が猛反対しましたが、

藤原氏が押し切る形で立后されました。



聖武天皇と光明皇后は同い年、十代で結婚し、

18歳のときに阿部内親王、そして27歳のときに基(もとい)親王が生まれました。



この基親王の誕生は、女系の天皇が続き、

政情が不安な中で大きな希望となっていました。

男子が生まれないと、長屋王が健在だっただけに皇位を奪われる恐れもありました。

それだけに、基王は希望の星だったのですが、

神亀5(728)年、わずか2歳で基王が夭折してしまいます。

たちまち長屋王一派と藤原氏の抗争がおこり、

長屋王一派は機先を制されて敗死します。

長屋王の変です。



これによって聖武天皇の敵対勢力は消えましたが、

幼い子を失って聖武天皇、光明皇后は悲嘆にくれたようです。

この嘆きを癒すには仏にすがるほかはないと、

夫妻は現在の東大寺の三月堂のあたりに寺を建てて、

9人の僧侶を住持させて幼い皇子の菩提を弔いました。

この寺は金鐘寺(こんしゅじ)と名付けられました。

この寺院がのちに、東大寺と発展していくのです。


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金鐘寺のあったあたりに現存する東大寺三月堂

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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