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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第17回 僧侶、“国家公務員”になる

大化の改新、壬申の乱と7世紀の日本は、皇室を中心とする権力闘争に明け暮れます。

同時に、この時期は、日本が中国の制度を取り入れて

国家としての形を整えつつあった時期でもありました。



仏教は、この世紀を通じて朝廷、有力な豪族層に浸透していきました。

有力豪族は氏寺を次々と造営しました。

藤原氏の興福寺、和気氏の神願寺、高山寺、阿倍氏の阿部寺などがその代表です。



寺の増加とともに、僧侶の数も増えていきます。

本来、僧侶は大陸から渡来した僧の下で修業し、

経典に精通し、厳しい戒律を守ることを求められます。

しかし、寺院が増えるとともに、僧侶の質は低下し、さまざまなトラブルが起こったようです。



推古天皇32(624)年4月、

ある僧侶が自分の祖父を斧で惨殺すると言う事件が起こりました。

推古天皇はこの事態を憂慮し、僧尼を監督するために僧正、僧都という職を設けました。

そして観勒(かんろく)が僧上に、

鞍作徳積(くらつくりのとくしゃく)が僧都に任じられました。

観勒は、百済からやってきた高名な僧です。

また鞍作徳積もその姓からして、渡来系の人だったと思われます。

僧正、僧都を合わせて「僧綱(そうごう)」といいました。



こうした僧侶の破戒行為とともに問題視されたのが、

安易に出家するものが増えたことです。

僧、尼になれば寺に住むことができ、生活が保障される上に人々の尊敬を集めることができます。

そこで身分にかかわらず多くの人々が勝手に頭を剃って出家するようになりました。



こうした仏教をめぐる問題に対応するために、

大宝元(701)年の大宝律令では「僧尼令」が定められました。

ここでは僧尼による破戒行為の禁止、僧綱による寺院の統制、

勝手に僧侶になったり、人々に教えを説くことの禁止、

人々に食料や金品を乞うこと(乞食)の禁止などが定められました。

反対にいえば、それまではそうした行為が横行していたのでしょう。



そして、今後は国家が定める試験に合格した者だけに得度を許し、

僧尼として公認するということが定められました。

また、年間に僧侶になれる定員も定められました。

これを「年分度者」といいます。

以後も勝手に僧侶になる人は跡を絶ちませんでしたが、これは「私度僧」と呼ばれました。



「年分度者」は、僧侶としての身分が保障されました。

そのかわり、「年分度者」は、仏教の力で国家の安泰に尽力することが求められました。

僧侶は「国家公務員」になったのです。


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藤原氏の氏寺 興福寺

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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