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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第11回 聖徳太子の仏教への思い

教科書にはほんの1、2行で書かれている「仏教公伝」ですが、

35年あるいは仏教公伝を538年だとすれば

半世紀もの歳月を経て、ようやく公認されたわけです。



この争いは「宗教戦争」の一面もありました。

物部氏とともに常に仏教を排斥する側に回った中臣氏は、

忌部氏とともに神事、再起を司った氏族でした。

この中臣氏からは、のちに藤原氏の祖となる鎌足が出るのですが、

この当時は「抵抗勢力」の副将格でした。

中臣氏にとって、新しい神の出現は自らの地歩を危うくするものでした。



それだけでなく、後に詳述しますが、仏教の登場は

国家のシステムをゆるがしかねない事態でもありました。



蘇我氏は新興勢力でありながら、代々に渡って皇族と姻戚関係を結びました。

のちに藤原氏がそうしたように、

蘇我氏は血縁の力で朝廷に勢力を及ぼしたのです。

これまで主として武力で勢力を伸ばしていた

物部氏や大伴氏は苦々しく思っていたことでしょう。

そういう意味では、仏教をめぐる騒乱は明らかな「政争」でもありました。



蘇我氏の地を最も濃く受け継いでいる皇族は誰か?

聖徳太子です。

祖母も、母も、そして妻も蘇我氏。太子は恐らく蘇我氏の邸で

蘇我氏の子どもたちと一緒に育ったはずです。

仏教に親しんだのも、蘇我氏の邸だったはずです。



587年、蘇我氏と物部氏の最終決戦のときには、

太子は数えで15歳になっていました。

物部氏を攻める蘇我軍に従軍したといわれ、よく知られているように

「この戦で勝たせていただくことができれば、仏塔を作り布教に努めます」と祈ったとされます。



聖徳太子は父や叔父たちをめぐる醜い争いを見ながら育ったはずです。

祖父の欽明天皇は太子が生まれる前に崩御していますが、

祖母の蘇我堅塩媛や、母の穴穂部間人皇女などから

仏教伝来にまつわる話を聞いて大きくなったはずです。

太子にとっては「仏教の公認」は生を受けたときからの宿望だったはずです。

聖徳太子は、日本に仏教を広める上で決定的な役割を果たしましたが、

その背景には祖父の代から三代にわたる悲願があったのです。


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「宗教戦争」に勝って建てられたといわれる大阪市の四天王寺


プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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