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広尾 晃の気まぐれ寺ばなし

第7回 仏の顔は「きらぎらし」

『日本書紀』の仏教公伝のシーンは、古代史の中でも感動的なものの一つだと思います。



欽明天皇十三(552)年十月に、百済の聖明王が使いをよこして、

釋迦佛金銅像一躯、幡盖若干・經論若干卷を奉ります。

当時、百済は同盟国であり、高句麗、新羅など強国に攻められて、

日本に支援を求めている最中でした。

釈迦仏像やお経などはそれに対するお礼という意味があったのかもしれません。



使いは天皇に「この法は諸法の中でも最もすぐれています。

周公や孔子も理解できないほど難しいものでしたが、なんでも思い通りになります。

インドから三韓まで、広く信仰されているものです」と上表します。



欽明天皇は「天皇聞已歡喜踊躍」つまり、躍り上がって喜ばれます。

「私は昔から今までこんな素晴らしい法を聞いたことがなかった。

けれど自分ひとりで決めることはしない」と言われて群臣に一人ひとり尋ねられます。

このときの欽明天皇の言葉がすばらしい!



「西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不」

西の異国から来た仏の「相貌(かお)端嚴(きらぎらし)」

まだ見たこともないものだ。これを祀るべきかどうか。



本当は、仏教を信仰したくてたまらない、という気持ちが「きらぎらし」という言葉に現れています。

しかし、天皇は自分で決めることはせず、臣下に意見を求めています。

当時帝は44歳という分別盛りでしたが、欽明天皇の時代は

大陸出兵問題があったうえに、信頼していた大伴金村が失脚、

朝廷は蘇我氏、物部氏の二大勢力が拮抗していたからです。

独断をすれば内乱が起こりかねないと思われたのでしょう。



よく知られているように、蘇我稲目は仏教信仰に賛成し、物部守屋は反対します。

そこで天皇は、蘇我稲目に「お前に預けるから試しに拝んでみよ」と命じます。

このあたり、部下に試供品を試させる感覚です。

このころの仏教は「宗教」というよりは、実効性のある「科学技術」みたいな感覚だったのでしょう。

早速、蘇我稲目は自分の邸で仏を拝みます。「向原の家を清めて寺とす」。

日本初の「お寺」は公式にはこれに当たるのではないでしょうか。



しかし、それから国内には疫病がはやり、若死にする人が続出します。

物部守屋は「あのとき、私の意見を聞かなかったからこうなりました。

仏は早く捨ててしまうべきです」と迫ります。

天皇は「奏すままに」つまり「そのようにせよ」と言われます。

短い言葉に無念さが現れています。



こうして百済から贈られた仏は、根付くことなく難波の堀江の池に捨てられます。

仏を贈った聖明王は2年後の554年に新羅との戦いで戦死します。

仏教公伝劇は、ここまでが第一幕です。



この話には、史実としては疑問符がつく部分も多いようで、

特に百済の使者の上表は、あとから脚色したものだとみなされています。

しかし、欽明天皇の「きらぎらし」という言葉には、

時代を超えた「感嘆の気持ち」がこめられていると思います。



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蘇我稲目が建てたお寺の後進とされる向原寺(奈良県明日香村)

プロフィール

広尾 晃(ひろお・こう)

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライター、プランナー、ライターとして活躍中。日米の野球記録を専門に取りあげるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドア奨学金受賞。スポーツ専門テレビ局「J SPORTS」でプロ野球番組のコメンテーターも務めている。著書に『巨人軍の巨人 馬場正平』、『プロ野球なんでもランキング』、『プロ野球解説者を解説する』(以上、イースト・プレス刊)など。

 

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