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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪

第5回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(後編)

俳諧師たちの生活圏へ

 

人気作家になった井原西鶴が、小説執筆のかたわら生涯続けてきたのが、俳諧師というもう一つの生き方だった。
そもそもは大阪商人の出身である西鶴が、俳諧を志したのは15歳の頃だという。当時の商人たちは謡曲や俳諧が必須の教養だったというので、俳諧は皆が共通して楽しめる文学活動だったのだろう。

 

大阪の俳諧師は、松尾芭蕉(彼も西山宗因の俳諧に多大な影響を受けた一人である)のような旅する俳諧師と違って、商人として生計を立てながら、地に根を下ろした活動をする者が大多数を占めていた。外に出向かずとも大阪城下内にそれなりの規模を誇る俳諧の経済圏が存在し、彼らの根底(作風や価値観の土台)には大阪商人という生き様が横たわっていた。
未知の世界を追求するのでなく、生活に根差した文学――それが大阪を拠点とする談林俳諧の大きな特徴といえよう。

 

とはいえ、これから俳諧師という一人一人の書き手(詠み手)の暮らしの痕跡を辿るのに、彼ら商人たちの生活圏、大阪城下町をくまなく見てまわるにはあまりにも広すぎる。一人の俳諧師にスポットを当てて理解を深めるには、やはり最も情報が豊富な西鶴が適任だ。
現場に行ってみる以外に当てはないので、とにかく大阪天満宮から天神橋を渡って、西鶴が暮らしていたと噂される谷町(城下町時代は上町といった)へと向かうことにした。

 

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天満橋駅の京阪シティモール前には江戸時代からの八軒家浜船着場が再現されている(本物の常夜灯は生國魂神社に移築)。ここに『東海道中膝栗毛』でお馴染み弥次さん喜多さんも降り立った。向こうに見えるのが天神橋。

 

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京阪シティモールを抜けると天満橋駅から城下町外れの谷町九丁目駅に至るまで、南へ向かって上町台地の急坂がつづいていく。谷町に広がるこの坂こそ「大阪」の地名の由来。

 

今も残る暮らしの痕跡


大阪城下町というのはビルが立ち並ぶオフィス街でありながら、江戸時代からの要素が目に見えるかたちで割とよく残っている街だと思う。

 

谷町筋や松屋町筋といった南北の「筋」とそれらを東西につなぐ「通り」から成る、碁盤目状の街区(町割)。町のコミュニティを成す「通り」ごとに付けられた昔ながらの町名。今も現役で使われている太閤下水(背割下水)を背に、間口が狭くて奥行の広い敷地が連なり、その一つ一つに町家と同じ要領で立っている小さなビルの数々......。天満橋駅(谷町一丁目)から谷町筋の坂道を上っていく途中で左手に現れる、大阪城(現在は3代目天守閣)の存在も欠かせない。

 

昭和40年代前後に一斉に建てられた、一見何の変哲もないビル街に城下町フィルターをかぶせてみると、とたんに歴史的都市へと様変わりしてしまうから、谷町はおもしろい。

 

西鶴はこの城下町のどこかを住まいに、20代から点者(俳諧に点を付け、点料をもらう職業)となり、俳諧で生計を立てるプロの俳諧師になった。人気と実力がものをいう世界で、西鶴にお金を払ってでも指導を受けたいと思う者たちがそれなりの数集まらない限り、生活は成り立たない。

 

西鶴の死後しばらくした元禄年間、俳人評判記にて京都は29名、大坂は24名の俳諧点者がいるという記述がある(『商売繁昌』より)。点者にはランクがあってピンからキリまで、さらには対面指導や出版等、点取り以外を収入源とするプロの俳諧師もいたことから、大坂24名はかなり基準を厳しくした人数と思われる。
とはいえ、今よりうんと人口が少なかった当時の大坂で、それなりの数の点者が職業として成り立っていたというのは、今とは比べものにならないほどに多い印象を受ける。その裾野には、相当の数の真剣に俳諧を極めようとしている者たちがいたことに間違いはないだろう。

 

例えば『生玉万句』(第3回記事参照)を発行した阿波座堀の本屋・板本安兵衛は、本屋を営みながらアマチュアの俳諧師として、精力的に俳諧をたしなんでいた。このように俳諧書を制作・販売するような書肆はもちろん、大坂の俳諧業を支えていたのは、俳諧というもう一つの生きがいを持ちながら、○○屋と称するような、道を歩けば至るところに存在するごく普通の商売人たちだった。

 

実は、ビル街となった現在の谷町や船場に残る城下町の要素のほとんどが、談林俳諧の流行った江戸時代初期に形成されている。西鶴が生まれたのは、大坂夏の陣から27年後、焼け野原と化した大坂の町(今より狭い意味での大坂城下町)が徳川政権のもと新たに整備され、まさしく商都としてこれから目まぐるしく発展していく戦後復興期の寛永19年(1642)のことだった。
奇しくも、太平洋戦争で焼け野原と化した谷町が、戦後本格復興を遂げビル街が形成されていくのも、終戦から25年後くらいから(昭和45年の大阪万博が契機)である。

 

つまり現在のこの町の基盤は、西鶴やその親の世代の町づくりによって形づくられている。商いを目的に形成されたここビル街のルーツは城下町時代の町人町であり、さらには現在、ここにビルを所有し暮らす住民の多くが、場所や商売こそ移り変われど古くからの大阪商人の出身(もしくは現役の商人)であることは、街を見る視点として是非とも押さえておきたいところだ。

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天満橋の坂道を少し上った先の珈琲店アワヒニ(船越町一丁目)では店先で古本市を開催していた(谷町らしく包装紙会社が経営し、両側も紙屋!)。誰かが読み終えたメッセージ付きの『芭蕉=二つの顔 俗人と俳聖と』を購入し、松尾芭蕉の俳諧師としての生き方を学ぶ。

 

 

俳諧師の生活と出版


さて、この町で生活していた俳諧師にとって、大きな収入源になるのがやはり出版だった。著書を出して原稿料を得るよりむしろ、撰集を出版することが大きな収入源になっていた。

 

出版社が主体になるのではなく、俳諧師自らが選者となって出版を企画する。まず出版社に見積もりを取り、そこから本に掲載する句の入花料(入選料)をいくらずつ集めれば利益が出るのかを計算する。

 

つづいて句を募集し、入選句(掲載句)を選び、一冊の本に編み、百?三百部ほどを出版する。少部数なので販売よりも選者への配本がメインであり、出版費用から入花料を引いた額が選者(企画者である俳諧師)の主な収入となった。

 

本の選者になるには企画力や権威も必要だ。「選者井原西鶴」といった看板に魅力がなければ入花料も集まらないから、稼ぎにならない。
西鶴も最初は句を応募するほうの立場にあった。まず2つの俳諧書に句が入集し、次に自らの企画で『生玉万句』を刊行し(当時はまだ選者が務まるほどの知名度はなかったから企画力で勝負した)、独自のプロデュース力でより上にいく道を模索した。

 

大坂の本屋が談林俳諧という地元のコンテンツを積極的に取り込んで出版を手掛けていくその裏には、名のある京都の出版社が受け入れないような質の作品でも拒絶しない、受け皿としての側面もあった。
私も大阪の複数の出版社で商売人から広告料を貰って記事を書いたり、地元からのスポンサー資金で本をつくったり、いわば企画ものの自費出版の仕事は何度もしたことがある。東京に出版社が一極集中しても大阪で生き残る道として、さらに商都大阪の特殊性として、この形態は時代を越えて受け継がれているのだろう。

 

ちなみに俳諧師は点付けや出版活動の他にもその人脈を生かして、愛好者からの依頼に応じて色紙や軸物等に句や絵を描いて納品する仲介業でも立派に収入を得ていたようだ。これは西鶴も同様である。

 

 

鑓屋町へ


谷町筋を上ること数百メートル、大阪城や大阪歴史博物館の最寄り駅である地下鉄谷町四丁目駅にさしかかる。谷町筋に面した駅3番出口近くを脇に入ると、ここから松屋町筋にかけて、一本の通りが続いている。
町名は鑓屋町(やりやまち)。江戸時代の城下町再築にあたって京都の伏見から町人が大勢移り住み、主に刀鍛冶を営んでいた地域である。

 

西鶴の暮らしていた場所として最も広く知られている説が、この鑓屋町なのだ。説の根拠は西鶴の死後30年以上経ってからの聞書がもとになっており、研究者の間でも意見の分かれるところで信憑性は定かではない。

 

意外なことに、西鶴の作品研究は豊富であるにも関わらず、彼の生い立ちで定かなのは大坂育ちの商人(親の世代からなのか自ら商いをしていたのか奉公人だったのかは不明)というぼんやりしたことくらいで、本名さえ謎に包まれている。
大坂商人出身であることから、きっと大坂城下町のどこかで暮らしていたのだろうが、あれだけ多くの作品を残し、且つ自己主張が強かったと評される西鶴が、自らのことを書き残さなかったのは、意外を通り越して不可解でもある。

 

碑でも立っていないかと歩いていくと、江戸時代後期を生きた刀工(人間国宝)月山貞一の居宅跡を示す碑が立っていた。もし西鶴が本当に鑓屋町で暮らしていたなら月山貞一の先祖とご近所さんだったのではと調べてみると、月山家は幕末に山形から大坂へと移住して来たことが分かった。
今は鍛冶関係の面影はない。繊維関係の商いをしている(もしくはしていた)こぢんまりとしたビルが連なり、さらにそれらが雑居化して、業種を判別するのさえ難しくなっている。

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谷町筋の脇に延びるこの両側町が鑓屋町。平日のランチタイムにはお弁当屋が出現する。突当り正面の巨大なビルは大阪歴史博物館、その先が大阪城。

 

 

この連載で最初に取り組んだのが、谷町のビル群の中に紙屋が多い理由を探すことだった。これらビル群の中で繊維関係や紙関係の商いをしている率の高さというのは、江戸時代にここ商家群の中で俳諧関係者に出会うのと似ているかもしれない。

 

果たして西鶴のように商人から俳諧師へと本気で突き進む者はどれだけいたのだろうか。実力ある者から指導を受け、書籍という形で作品(句)を発表する。その先には点者や選者といった立場としてプロの俳諧師の世界があり、さらなる高みとして大阪天満宮連歌所の宗匠である西山宗因まで続いている。

 

ここ商人の街から数多くの俳諧撰集が出版されたことを考えると、自分の句が本に掲載されたことのある商人は珍しくなかったはずだ。入花料を払っても、持ち前の商人気質で本を販売することができれば少しは元も取れる。才能が認められ評価されれば、プロとしてのステップを駆け上がることも夢ではない。

 

プロアマ含めた密な俳諧ネットワークが町の中に存在していた江戸時代。今はインターネットを使って自由に作品を発表できる時代になったが、リアル世界でこれだけコンパクトに、充実した創作環境が整っていたことを考えれば、うらやましくもある。

 

何より、この街に立つビルの一つ一つの所有者の先祖こそ、大阪天満宮の連歌所に通って腕を磨いた俳諧師だったかもしれないのだ。そこかしこの商人たちが、実は店の奥で俳諧をたしなんでいたというのは、想像するだけでなんだか楽しい。

 

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ビルが取り壊されたその奥に、突如古い蔵と住宅が現れる。信号機に「谷町2」「大阪城→」の標識あり。

 

 

参考文献
鈴木遥執筆・メディアイランド編「天満橋・八軒家界隈 今昔ものがたり」(株式会社上村)2013
国文学研究資料館編『商売繁昌 -江戸文学と稼業-(古典講演シリーズ 3)』(臨川書店)1999
中嶋隆『【新版】西鶴と元禄メディア その戦略と展開』(笠間書院)2011
田中善信『芭蕉=二つの顔 俗人と俳聖と』(講談社)1998

プロフィール

鈴木 遥(すずき・はるか)

ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(
http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログ
http://karakuri-h.seesaa.net/

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