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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪

第4回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(前編)

かつて大阪発の書籍というのは、どのような人たちが書いていたのか。
その書き手(著者)たちの実態に迫ってみたいと、まず訪れたのは、天神橋の北に鎮座する天満の天神さんこと大阪天満宮だった。

 

「当宮連歌所の宗匠・西山宗因の影響のもと・井原西鶴・近松門左衛門・小西来山などが輩出・上方文壇発祥の地です」
表門の脇にある巨大な境内イラストマップには、こう記されている。

 

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生國魂神社を「大阪の出版文化発祥の地」とするならば、ここは同じ頃、大阪初期の出版界に名を連ねる数々の書き手を生み出した「上方文壇発祥の地」ということになろうか。
その発祥の地たりうる秘密は、大阪天満宮連歌所にある。

 

すでに連歌所の建物は残っていないが、かつてここは大阪の俳諧師たちの活動拠点になっていた。
連歌所の宗匠(師匠の意)は、談林俳諧で一時代を築いた西山宗因。江戸時代初期、京都を拠点とした貞門派の俳諧「貞門俳諧」に代わって、西山宗因を中心に新たな勢力として新風を巻き起こしていたのが、大阪を拠点とした談林派の俳諧「談林俳諧」だった。

 

今までの保守的な俳諧から脱皮し、庶民的且つ自由奔放でエネルギーにあふれた談林俳諧。そんな俳諧カルチャーをけん引した西山宗因を師と慕った井原西鶴ら、大勢の俳諧師たちがここに集い、俳諧の腕を磨いた。大阪天満宮連歌所は、当時の文学界をリードする談林俳諧の発信基地だったのだ。

 


連歌所の周辺環境


表門の脇の最も目立つ場所に、「大阪天満宮」と刻まれた石柱と並んで「西山宗因向栄庵跡」の碑が立っている。宗因は天満宮連歌所の宗匠になってから約10年後の明暦2年(1656)、52歳になって神社の傍らに向栄庵を開いたという。

 

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碑は写真右端。宗因は「されば爰(ここ)に談林の木あり梅の花」と句を詠んだ。

 

確かに、境内マップにあるように「上方文壇発祥の地」となり得たのは、ここに俳諧のカリスマ宗因がいたことが大きい。しかし、境内に立ち入ってみて直感的に感じたのは、何より「環境が素晴らしい!」ということに尽きるのだった。

 

これまで様々な目的地へ向かう途中、特に意識することなく何度も天満宮のそばを通過してきて改めて思うのが、とにかくこの神社は好アクセスであることだ。


周辺に駅がいくつも存在し、大坂城下の谷町や船場へも、その後新たに開発された梅田へも、大阪のあらゆる主要だった場所に自転車さえあれば、ふらりと移動できてしまう。
連歌所へ集う俳諧師たちは大阪の町(今より狭い意味での町)の至るところに住まいがあったと考えると、この場所ほど多くの人が歩いて通いやすい拠点は思いつかない。

 

交通の便だけではない。江戸時代の大阪天満宮は、蔵屋敷エリア(第2回記事参照)の東端に位置し、そばに架かる天神橋から隣の天満橋へ向かって川沿いを少し歩けば、大坂三大市場の一つ「天満の青物市」(大阪市中央卸売市場の前身)、向かい側には京都と大坂を船で結ぶ大坂の玄関口「八軒家船着き場」があった。そこから先は大坂城下の町人町が広がっている。

 

当時天満宮の界隈は、諸国からの物資や文化が交わる刺激的な場所だった。そんな活気に満ちた環境があってこそ、談林俳諧は大阪発の文学として花開き、出版文化の発展の礎を築いたに違いない。
西山宗因の存在しかり、「上方文壇発祥の地」には、この場所だからこその必然性があったのだろう(ちなみにこの記事を掲載しているメディアイランドも天満宮旧境内地に位置している)。

 


初期の大阪出版物の特徴


さて、連歌所の存在を知って私が最も強い関心を抱くのは、西山宗因の門下として談林俳諧の裾野を広げた、その他大勢の俳諧師たち(俳諧の詠み手たち)の存在である。

 

大坂の新たな産業として出版業が出現した江戸時代初期、大坂で刊行された出版物は俳諧書(俳書)が大多数を占めていた。
現在の感覚からすると意外だが、この時代は俳諧が庶民の間で流行っていたから、その表れだろう。出版先進地の京都でも出版全体数の中で俳諧書が占める割合はかなり高く、俳諧書専門の有名出版社がいくつも存在していた。

 

そんな中、主要だった出版物の発行を担う京都の隣にあって、大坂がそれに勝る強みをつくるとしたら、大坂独自のコンテンツを京都に持ち込まず、地元で制作・販売すること以外にないだろう。ゆえに、大坂の出版文化は俳諧書から起こり、その出版を通じて無名の本屋が有名出版社へ、西鶴であっても俳諧師としての文学活動からはじまり、有名作家へとのし上がっていった。

 

そう、大坂の出版初期における書き手の多くは、大坂を拠点とする俳諧師たちだったのだ。

 

例えば小説家であれば、アマチュアからプロ、さらに売れっ子作家まで「小説を書いている人」という広いくくりの中で、幅広い書き手が存在している。俳諧師もそれと同じで、大坂の俳諧文壇であれば「俳諧をたしなむ人」というくくりの中で、西山宗因をトップにプロからアマチュアまで、大きく裾野を広げたピラミッド構造が存在していた。

 

ここで重要なのは、日本一の商都というこの時代の大坂の特殊性である。
談林俳諧の時代というのは、徳川政権のもと新たに都市開発された大坂城下町に大勢の商人が移り住み、大坂夏の陣で焼け野原と化した町が復興していく最中にあった。人口の急激な増加に伴い、情報や出版のニーズが高まっていた。
そんな中、この町で談林俳諧のブームが沸き起こる――。この町で暮らす多くの俳諧師たちの正体は、大坂城下町を中心にごく普通に商売を営む(もしくはそこで働く)大坂商人たちだったのだ。

 

商いをしながら俳諧活動(文学活動)をつづける彼らの生活は、どのようなものだったのか。どのように作品を発信し、どのようなステップでプロの俳諧師となり得たのだろうか。
後編(俳諧師たちの暮らし編)につづく。

 

 

 

参考文献
中嶋隆『【新版】西鶴と元禄メディア その戦略と展開』(笠間書院)2011
秋山虔・三好行雄編著『原色シグマ 新日本文学史』(文英堂)2014
羽生紀子『西鶴と出版メディアの研究』(和泉書院)2000
ウェブサイト「大阪再発見! 宗因の句碑」
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage924.htm


 

プロフィール

鈴木 遥(すずき・はるか)

ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(
http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログ
http://karakuri-h.seesaa.net/

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