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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪

第3回 「大阪初の出版物」は西鶴主催イベントの書籍化だった

大阪城下町の南端、寺院が寄り集まった寺町エリアの一画(地下鉄谷町九丁目駅すぐそば)に、'いくたまさん'こと生國魂神社(生玉神社)は鎮座している。

 

かつて寺社が文化の発信地だった時代、この神社では能や落語などの芸能が盛んに行われていた。今も「上方落語発祥の地」として、毎年9月になると上方落語家が一堂に会した「彦八まつり」が行われ、上方芸能ゆかりの神社として親しまれている。

 

この神社の境内で今から約350年前、一人の俳諧師(俳人)が俗に「万句興行」と称される大規模な'俳諧イベント'(俳諧とは短歌から派生した歌の一形態)を主催した。
これだけでは一時的な話題性のみで、後世まで語り継がれることはなかっただろう。ところがこの万句興行から数々の展開が生まれ、この俳諧師がのちに井原西鶴という江戸時代初期を代表する大作家へと大化けしたことで、今も私たちは数々の書物を通してそのイベントの存在を知ることができる。

 

しかし、今回このイベントに着目したのは、西鶴のルーツというよりむしろ、大阪の出版界を大きく動かすことになったからに他ならない。なぜなら西鶴は、当時まったくの無名だったにも関わらず、この万句興行をもとに企画を書肆(出版社)に持ち込み、デビュー作となる書籍『生玉万句(いくたままんく)』を出版した。
この『生玉万句』こそ、記録で確認できる限り、大阪から単独で出版された「大阪初の出版物」なのである。

 

「万句興行」とはいったいどのようなイベントで、どのように書籍化され、どのような広がりを見せたのか......。
それを知りたいと、私は神社の境内――「大阪の出版文化のはじまりの地」を訪ねてみることにした。

 

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「大阪の出版文化のはじまりの地」生國魂神社

 

 

「万句興行」から『生玉万句』へ


江戸時代初期の寛文13年(1673)2月のこと、31歳の西鶴(当時は鶴永と号す)は、生國魂神社(当時の書籍では「生玉」表記)の南坊にて、12日間に及ぶ俳諧イベントを主催した。

 

当時の大坂は、自由で軽妙闊達な詠みぶりを特徴とした「談林俳諧」(談林派の俳諧)の隆盛期であり、仕事の傍ら俳諧をたしなむ俳諧師たちが、プロアマ問わず町のそこかしこにいた。そういった中で西鶴は、プロの俳諧師として俳諧に点をつけ、指導する立場にあったが、俳壇での地位はそれほど高くはない。
そこで、俳諧師として自分を権威付けするため、'万の句を詠む'という話題性を狙って企画したのが、この万句興行だったと考えられている。

 

そのイベントを書籍化した『生玉万句』の序文にて、西鶴は「生玉の御神前にて、一流の万句催し、すきの輩出座、その数をしらず......」と、その成功を記している。
「一流の万句」を催すために動員した俳諧師は、なんと160人。西鶴をはじめ彼らが次々と即興の句を発し、それを「執筆」と呼ばれる記録係りが書き留め、観衆が見物する――境内の脇に位置する南坊の一帯に大勢の人が押し寄せ、さぞかし盛り上がったことだろうと想像できる。

 

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 万句興行が催された南坊跡。生い茂った木々の中に西鶴の銅像が立っている。

 

 

それにしても、俳壇でさほど力のない西鶴が、なぜこれほど大勢の俳諧師を動員し、これほど規模の大きな興行を催すことができたのか。

 

まず、生國魂神社やその他多くの寺社では、神仏を楽しませるために連歌を奉納する「法楽連歌」が行われていた。「俳諧」というのは、中世に流行った連歌(和歌の上の句'五七五'と下の句'七七'を別の人が詠み、その付け合いを楽しむ文芸)を民衆化させた「俳諧の連歌」の略称である。
万句興行は西鶴が主催したといえど、すでにあった生國魂神社の「生玉社法楽」を利用して、そこに句数を稼ぐという当時流行りの形態を盛り込んだ「法楽万句」(北野天満宮の「法楽千句」などが有名である)というのが実態だったと考えられる。

 

さらに、俳諧師160人が出座したと聞くとインパクトが大きいが、その内訳は当時の西鶴と同格程度、もしくはこの興行以外に名を見ることもできない二流や新人が大多数を占めていた。そこに古参の俳人を十数名加えることで箔を付け、人選よりも「万句」という企画ありきの編成だった。

 

なんだか西鶴のやり方には、派手なうたい文句を好み商売っ気あふれる大阪人らしさを感じてしまう。加えて、この当時は質よりも、速さや数や量といったものに人々の関心が向かっていた、そんな時代でもあった。

 

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大坂からの自由な出版


万句興行を出版に重点を置いた企画と考えるならば、ここまでは書籍化のためのコンテンツと話題づくりともいえる。
万句興行から数ヵ月が経った6月のこと、西鶴が自ら筆をとって取りまとめた俳諧集『生玉万句』が刊行された。興行で詠まれた句の他に、西鶴が師事していた談林俳諧の権威者西山宗因の句や、西鶴の新たな句も加えられた。

 

出版元は「大坂阿波座堀 板本安兵衛」である。阿波座堀は江戸時代に入り、大坂城下町の復興にあたって新たな都市計画のもと開削された。この時、開削からまだ50年ほどしか経っていないので、板本安兵衛のここでの居住歴もまだそれほど古くはないと想像できる。


加えて、徳川政権のもと商都として動き出したばかりの大坂では、記録として確実視されている出版物は、まだ京都の書肆山本七郎兵衛と大坂の書肆深江屋太郎兵衛とで合同で出版された俳書『落花集』のみだった。大坂から単独での出版物は『生玉万句』が最古(初めて)ということになる。

 

しかし、出版先進地の京都に隣接する立地柄、京都で出版された書籍を販売する書肆(本屋)はすでに存在していたようだ。日本一の商都として、紙をはじめ本づくりに必要な資材は容易に入手することができたし、彫師などの職人も揃っていた。無いのは実績だった。

 

西鶴もまた、入選した句が本に掲載されたことはあったが、これといった実績もなく、出版を通して俳諧師としての権威付けがしたかった。にも関わらず、なぜすでに俳諧書の出版実績が豊富な京都ではなく、何の実績もない大坂の「板本安兵衛」(書肆だったと考えられる)に企画を持ち込むことにしたのだろうか。

 

実は、『生玉万句』は時間制限内に多くの句を詠む「万句」という話題性を重視した故、二流や新人ばかりを集めた俳諧集で、句のクオリティもさほど高いとはいえなかった。当然、商業出版ではない。
製作費も出座した俳諧師たちで出し合ったのか、低予算で造られたようで、本の造りは京都で同時期に出版された俳書と比べて見劣りする出来具合だった。

 

自ら資金を負担する自費出版(『生玉万句』の場合、同人誌のニュアンスが近いかもしれない)であれば、版元の意向が重視される商業出版と違って、著者の意向を強く反映させることができる。
本の序文で新風の俳諧師であることを高らかに宣言した西鶴にとって、自主制作ではなく版元から出すという体裁を取りつつも、保守的な貞門俳諧の地京都よりも談林俳諧の中心地大坂で、自分の思う通りにやらせてくれる自由な出版を選んだのかもしれない。京都の名のある書肆から出版を断られた可能性も無きにしも非ずだが......。

 

ともあれ、この「初の出版」を機に、西鶴は句数を競う興行をエスカレートさせ、積極的に俳諧書を出版し、数々のムーブメントを起こしていった。

 

境内で「井原西鶴座像」と記された標識の先、西鶴の銅像に駆け寄って驚いたのは、銅像の横に刻まれた説明文にも、その他境内の案内板にも、ここで万句興行が行われたという説明がどこにもないことだった。
西鶴に関して神社がうたっているのは、「西鶴一昼夜四千句独吟の聖地」なのである。「井原西鶴は(省略)延宝八年に一昼夜四千句の独吟矢数俳諧の新記録をこの地生国魂神社南坊で樹立した......」

 

そう、万句興行の8年後に39歳の西鶴は、この場所で一日一夜で四千句を独吟するという記録を打ち立て、それを『西鶴大矢数』として書籍化している(その記録も4年後には、住吉大社での「一昼夜二万三千五百句独吟」によって西鶴自らが打ち破ってしまうのであるが)。


ともかくここにあるのは万句興行ではなく、一昼夜四千句独吟の興行を記念しての西鶴像なのであった。「大阪の出版文化のはじまりの地」としての権威は、その後の西鶴の活躍があまりに抜きん出ていたがために、すっかり消え失せてしまっている。

 

 

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銅像の西鶴は、当時39歳にしてはずいぶん老けているように見える。

 

参考文献
中嶋隆『【新版】西鶴と元禄メディア その戦略と展開』(笠間書院)2011
大野鵠士『西鶴矢数俳諧の世界』(和泉書院)2003
秋山虔・三好行雄編著『原色シグマ 新日本文学史』(文英堂)2014

 

プロフィール

鈴木 遥(すずき・はるか)

ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(
http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログ
http://karakuri-h.seesaa.net/

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