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本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪

第2回 江戸時代の紙の仕入れルートを追う

ここに来れば、全国各地のあらゆる紙が揃っている――そんな紙の一大市場が江戸時代の大坂にあった(※江戸時代は大阪ではなく大坂表記)。

 

これが書籍であれば、現在は全国の出版社から取次会社(問屋)に本が一堂に集められ、そこから全国の書店へと出荷される。
同じように当時の大坂は、全国の紙の産地からのありとあらゆる紙(登録紙のほぼ全て)が、水運でいったん大坂に集約されて、大坂を経由して再び全国各地へと出荷されていった。大坂という街を大規模な紙の取次空間だと捉えると、その実態がイメージしやすい。

 

それら大量の紙を仕入れて、販売・流通させていた大勢の商人たち――いわゆる紙問屋や紙商(紙屋)――が多く集まっていたのが、高麗橋二丁目、北浜一丁目、今橋二丁目辺り(北浜駅界隈)を中心に、少し時代が下るとその南の瓦町、淡路町、安土町の一丁目から二丁目の辺り(今も戦前からの紙の卸し会社が多く残っている地域)に範囲を広げた、通称「北船場」だった。

 

 

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 高麗橋三丁目の淀屋橋センタービル内は、塩昆布店「神宗」が経営する店舗兼ミュージアムとして、江戸時代の大坂の町並みが再現されている。この記事に関連した蔵屋敷の歴史も知ることができる。

 

 

この北船場のいわゆる「紙屋街」は、大坂城下町の中にあり、北は土佐堀川を隔てて中之島に、東は東横堀川を隔てて松屋町筋(第1回目の記事参照)に接している。

 

各紙屋の主人とその従業員たちは、紙の入札が行われる日になると、総出で東横堀川から船に乗り込み、紙の仕入れに向かった。船が動き出すと共に、それぞれの船では酒と料理が交わされ、中には笛や太鼓で囃し立てながらの船もあって、まるで社員旅行のような賑やかな光景が繰り広げられるのであった。

 

向かうは、中之島界隈の蔵屋敷である。

 

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紙の仕入の出発地、東横堀川。現在は川の上を高速道路が覆っている。

 

 

中之島と蔵屋敷
水上交通の要衝であり、全国から商品の集まる中核市場として栄えてきた商都大坂には、米や国産物を貯蔵することを目的に、諸藩の蔵屋敷(倉庫と邸宅が備わっている)が設けられていた。それら蔵屋敷では、米や国産物を売買して貨幣に替えるため、貯蔵だけでなく商取引が盛んに行われていた。

 

当時の租税(税金)は米や紙を主としていたため、大坂の市場で米に次いで二番三番を争う取扱量を誇っていたのが、紙と木材だった。そのため、紙の産地である藩は、米以外の国産物として、蔵屋敷に紙を納めた。
紙の産地にとって蔵屋敷は、紙の貯蔵庫であり販売所でもあったのだ。

 

それら諸藩の蔵屋敷が集中して立ち並んでいたのが、船場の北側に位置する土佐堀川と今は無き江戸掘川の沿岸一帯、中之島(細長いボートのような形状の中洲)界隈だった。蔵屋敷の数は次第に増加して、幕末には120以上に及んでいる。

 

紙の産地である藩の蔵屋敷も、記録が残っている10の蔵屋敷を見る限り、東の難波橋(京阪北浜駅そば)から西の常安橋(大阪市立科学館そば)の辺りまで、土佐堀川沿いに集中していた。そのうち、宇和島藩蔵屋敷や大洲蔵屋敷の跡地は朝日新聞社に(その後新聞社は移転)、鍋島藩蔵屋敷の跡地は大阪地方裁判所になっている。

 

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中之島にある現在の朝日新聞本社(中之島フェスティバルタワー)。
かつてはここからの風景は全て蔵屋敷だった。

 

 

そう、現在の中之島には中之島図書館(明治37年築)や大阪市中央公会堂(大正7年築)など、大阪を代表する立派な近代建築が立ち並んでいるが、その昔は、川側を米蔵で塀のように囲んだ蔵屋敷群という、当時の大坂を代表する美しい白壁の風景が続いていたのである。

 

 

蔵紙と脇紙
ここで紙の仕入れに話を戻そう。
江戸時代の紙は、蔵屋敷から各藩経由で公的に流通される「蔵紙」と、町人同士が直接取引する民間ルートの「脇紙」の二系統があった。そして、前者「蔵紙」の買出し――蔵屋敷に商人が入札に行くこと――を「紙出し」といった。

 

東横堀川から土佐堀川へと、酒を交わしながら船で中之島界隈にたどり着いた紙屋一行は、その紙出しのため、目的の蔵屋敷へと向かった。
そこには千石船から荷揚げされた紙――安治川口から川船に乗せ換え、中之島まで運んできていた――が屋内に山と積まれ、他の同業者たちも集まってきていた。

 

やはりここでも皆、元締から酒と料理を振る舞われて、まず一杯やってから取引にかかった。その入札の光景もまた立派なもので、酒も入って賑やかだったのだろう。見ものの一つになっていたという。

 

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佐賀藩鍋島家大城蔵屋敷の復元図。川から屋敷の中へと
船で出入りできるようになっていた。『まちに住まう』の口絵より。

 

 

入札が終わると、紙屋の一行は各自仕入れた紙を自分の船へと積み込み、再び横堀川へと戻っていった。荷揚後の陸の運搬には、大八車を利用したり、風呂敷に包んで担ぐなどした。
大きな紙屋だと蔵屋敷から船への積み込みに手間取り、日が暮れてから船に乗って、夜通し蔵に担ぎ入れる作業が行われることもあった。

 

これが、蔵屋敷出入りの紙商人たちによる、幕末から明治維新頃にかけての「紙出し」の光景である。

 

一方、藩を介さず町人同士で直取引していた「脇紙」――品質は蔵紙よりも若干劣るが、数は蔵紙よりも多かった――の場合、取引は入札のこともあったが、たいていは縁故を求めて紙屋各自があらかじめ問屋に注文をし、紙を積んだ船が到着すると、各紙屋は自ら問屋に出向いて、注文した分の紙を買い入れた。

 

こうして蔵屋敷や問屋から仕入れた紙は、大坂の紙屋で種類分けや値段分けをし、そこから全国の紙屋へ(江戸積、北國積など、販路によって分業されていた)、もしくは大坂内の商店や出版社などへと出荷されて、庶民の手へと渡っていった。

 

紙と共に産地から乗船してきた荷主もまた、紙にたずさわる商人の一人である。彼らは大坂に着くと荷主は問屋に、船主は商人常宿に宿泊しながら、しばらくの間大坂に滞在した。
帰路を空荷にしての片道運送ではもったいない。彼らは帰りに積んで帰る荷物を買い集め(もしくは問屋に依頼して買い出してもらい)、紙以外の商品を積んで、再び国へと帰っていった。


 

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紙のショールーム兼セレクトショップ「紙とデザインの書斎mukku」。
400種類以上もの紙類の中からじっくり吟味して購入することができる。
戦前からの紙屋エリアと戦後に広がった紙屋エリアの境界、安土町(北船場の南部)にある。

 

 

明治以降の紙と中之島の関係
明治4年の廃藩置県と共に、蔵屋敷は廃止される。

 

北船場の「紙屋街」は、明治以後むしろ活発になって、商人たちの手により受け継がれていった。一方、蔵紙の仕入れスポット中之島は、明治維新と共に「紙」と切り離されてしまったのだろうか。どうやら、そうではないらしい。

蔵屋敷が廃止された明治4年、大阪商人の百武安兵衛がイギリスで洋紙の製紙機械を注文し、翌年大阪に到着した。これが「日本にはじめて導入された洋式の製紙機械」とされている。

 

この洋紙製造機械を利用して、明治7年、それまで蔵屋敷が立ち並んでいた中之島の玉江橋南詰西に煉瓦造りの製紙工場「中之島製紙」(当初は眞島製紙所)がつくられた。

 

明治5年に東京の有恒社と王子製紙が製紙工場を一足早く立ち上げたため、中之島製紙は日本初の洋紙の製紙工場とはならなかった。しかし、関西で京都(梅津製紙)や神戸(神戸製紙)に先駆け建設されたこの工場が、かつて紙取引の中心地だったここ中之島に誕生したというのは、感慨深いものがある。

 

白壁の蔵屋敷から、煉瓦造りの近代建築へ。和紙から洋紙へ。
中之島の景観に象徴されるように、活字の世界もまた、明治維新と共に新たなステージへと踏み出すことになった。
次回からは、大阪の出版の歴史を辿っていきます。

 

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難波橋南詰から土佐堀川を挟んで、赤煉瓦の大阪市中央公会堂を望む。

 

 

参考文献
大阪紙商同業組合編『大阪紙業沿革史 巻上』昭和16年
大阪市東区法円坂町外百五十七箇町区会編『東区史 第三巻 経済篇』昭和16年
大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう――大阪都市住宅史』(平凡社)1989年


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール

鈴木 遥(すずき・はるか)

ノンフィクション作家。1983年生まれ。神奈川県平塚市出身、大阪市在住。
学生時代、全都道府県120地域以上の古い町並みをまわり、京都、奈良を中心にさまざまな町並み保存活動や建築物の記録活動に携わる。出版社勤務を経てフリーランスに。
電信柱の突き出た不思議な家と97歳ミドリさんの秘密を追ったデビュー作
『ミドリさんとカラクリ屋敷』が第8回開高鍵ノンフィクション賞の次点に。
今年5月に文庫版(
http://www.amazon.co.jp/dp/4087453200)が集英社文庫より刊行された。
共著『次の本へ』。ブログ
http://karakuri-h.seesaa.net/

 

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